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でぶっちょの青春の門 > でぶっちょ一家物語




第32話 小学校高学年の頃

この頃、小学校5,6年の頃は、学校が終わるとすぐ遊びに行きました。

たいがい、一番下のちびっちょを連れて遊びに行ってました。


いろいろな遊びがありました、今と違って全部屋外の遊びでした。


缶けり、長馬、中心(陣地取りゲーム)、おにごっこ各種

メンコ、ビー玉、ベーゴマ.....色々あって、どれも熱中しました。



場所は不動前の氷川神社や、近くの空き地や、家のまわりの路地

木工所の資材置き場、星薬化大学の移転跡地、国鉄アパートの敷地

などなど遊ぶところは、たくさんありました。

そうそう、学校も校庭開放をやってて、そこでも遊びました。.


一番馬鹿だったのは、秘密の地下室を作ろうと思い、

近くの工事現場から大きな木の箱を失敬してきて、穴掘ってたら、

工事現場の人がやってきて、御用となりました。

ほんと、バカでした。


熱中すると時間を忘れて、夕方遅くまで遊びましたが、友達の

お母さんが呼びにくると、そこでおしまいになりました。


もちろん、でぶっちょには呼びにきてくれる人はいませんでした。

とても、うらやましかったな。


それから、この頃になると小学校のクラスが団結してて、

となりのクラスと喧嘩をするなどという、物騒なことも

ありました。


でぶっちょ達の学年は2クラスしかなく、でぶっちょは2組

だったですが、1組の男子がうちのクラスの女子をからかったとか

くだらないことで、すぐ喧嘩になりました。


小競り合いが続いて、最後は氷川神社の境内で放課後

バトルロイヤルが始まり、警察が出動する騒ぎにまで

発展したこともありました。


今、考えると、幼稚でしたね。


友達がだんだんと長ズボンを履き出したのもこの頃でしたが、

でぶっちょは小学校の間、ずっと半ズボンで通しました。

もちろん、真冬でもそうでしたし、上も下着とセーターだけという

薄着の生活でした。


父の教育? 方針でした。 よけいな事でしょ? 

自分の子供の頃がそうだったからといって、それを

子供に実践させて、時代が違うっつうの!


それでも、この頃はまあまあ、楽しい生活が続きました。


                           つづく










お待たせしました! 再開します。

ども! でぶっちょです。

ここ1年間ほど、ブログの更新をお休みさせて頂きましたが、

やっと、再開します。


一度、休むとなかなか、腰が重くて、更新するのが

億劫になりましたが、当初の目的を達成すべく

再開の運びとなりました。


まあ、これだけ放置してたのですから、読者の方は

いないと思いますが、これからは週1のペースで

更新したいと思ってますので、よろしくお願いします。


本日15時に第32話をアップしますので

是非、ご覧くださいね。
タグ:ブログ再開

第31話 ギター教室!

ちょうど小学校の5年生になった時から、習い事

を始めました。

それまでは、家庭教師だけが、唯一の習い事だったのです。

でぶっちょの父は、音楽が好きで、というよりも、父の父が

つまり、でぶっちょの祖父が、音楽が好きでして、戦時中でも

クラッシック音楽を、隠れて聴いていたぐらいの音楽好きで、

その影響で父も音楽好きでした。

(父から聞いた話です、祖父は父が15の時に

                 亡くなってますので)

もちろん父も子供の時に、楽器をやりたかったのらしいのですが、

それは、かないませんでしたので、息子のでぶっちょに

夢を託したのでした。

もっとも、弟2人ともこの後にピアノを習いに行く

羽目になるのですが。

当然ピアノとかは家にありませんし、手軽に弾ける楽器といえば

ギターでした。

折も折、世の中はグループサウンズ全盛期の頃で、

でぶっちょは、エレキギターを習いたかったのに、

父には聞いてもらえず、結局、クラシックギター

習う事になりました。

教室の場所はどういうわけか、

御茶ノ水の黒澤楽器店でした。

山手線の五反田駅から、御茶ノ水まで通いました。

当時のお金で5千円位のギターを買って、ギターケースに

入れて、持ち運んでました。

でぶっちょはその当時、身長が120cmほどしかありません

ので、ギターを持つとかなり、アンバランスな感じでした。

週に1回でしたが、よく通いました、結局中学1年までの

3年弱ほど通ってました。

やはり、まじめ人間でしたね。

お陰で、クラシックギターはけっこううまく弾けるように

なりました。

  (禁じられた遊び、アルハムブラ宮殿の思い出とか)

でも、若いというか、流行には勝てず、GSから

フォークへとギターもかわって行ったのでした。

そのまま、続けていれば、いっぱしのミュージシャンに

なっていたかも知れないのに、もったいない事をしました。

それにしても、でぶっちょの家は周りから見たら、変な家

だったでしょうね。

母親はたまにしか帰ってこないし、父親は夜働きに出てるし

そのくせ、子供には家庭教師をつけたり、ギターを習わせたり

ピアノを習わせたりと、裕福なお坊ちゃまの家庭のようでした

からね。

このギター教室に通ってたお陰で、電車にも乗り慣れてきて、

山手線、総武線、中央線くらいは、一人で行っても苦になり

ませんでした。

そして、この頃から映画館へも顔を出すようになったのです。

  つづく


第30話 恩師との出会い

父の交通事故があってから、家族の絆は以前にも増して

より一層強まりましたが、父と母は平行線のままでした。

この頃、母は目黒から銀座へスカウトされ、忙しい

時期だったようです。

母は相変わらずでしたが、それでも帰ってくると

何かしら、でぶっちょ達の世話をやいてくれました。

だんだん母がいない生活にも慣れてきて、小学校も

楽しくなってきました。

そんな中で、祖父だけは父に気兼ねをして、肩身の狭い

思いをしてたようでした。



昭和42年4月 でぶっちょは5年生に、弟のつよっちょは

2年生、ちびっちょは幼稚園にそれぞれ進級しました。

でぶっちょはこの時、担任の大野幸子先生

出会ったのです。

先生はこの時たぶん37〜8歳くらいだったと思います。

5年と6年の2年間受け持ってもらい、その後の学校生活の

基盤ともいえる習慣態度を教わりました。

学級委員にも推薦してもらって、お陰でその後

生徒会活動は、高校生まで続くことになりました。

先生がでぶっちょにつけたあだ名は「まじめ人間」でした。

何をするのにも、一生懸命で頭に「くそ」が付くくらい

まじめでしたので、そうなったのでしょう?

今では、見る影もありませんけどね。(笑

もちろん、家庭のことも理解してくれて、家にも

たまに、顔を見せたりしてくれてました。

家庭訪問の時に、父に「おたくのまじめ人間はどうですか?」

などと、聞くものですから、父もまんざらではないようでした。


プールで泳げるようになったのも、大野先生のお陰です。

担任になる前の、4年生の夏休みのプールの進級テストで、

当時一番下の7級も受けられなかった、でぶっちょに

臨時でもっと短い距離の8級の設定をしてくれたのです。

8級は7級の半分の距離3.5メートルでした。

いまなら、蹴っただけでもそれ以上いけますが、

当時は溺者だったので必死でした。

それでも見事に合格しました。 

結果的には7メートル、泳げたのでした。

それから、ぐんぐん泳力がついて、5年生の夏には

学校代表で品川区の水泳大会に出場するまでになったのです。

学校のクラブももちろん水泳クラブに入りました。

卒業後も交流があり、中学校に上がってからは、夏に小学校の

プールへ水泳を教えに行ってましたが、それも、大野先生の

はからいでした。 

もちろん中学生ですから、無給で表向きは先生の補助要員でした。

年賀状のやりとりは、大人になるまで続いて、クラス会

にも顔を出してくれて、会うと「まじめ人間」て冗談で

言ってましたっけ。

手紙で相談にも乗ってもらいました。

本当に恩師と言える先生だったんです。

7〜8年前にお亡くなりになったと聞きました。

でぶっちょは東京を離れてましたので、情報が遅くて

葬儀には参列できませんでしたが、残念です。

今の寿命からしたら、早い旅立ちですね。

もう一度会っておきたかったです。


関連記事
でぶっちょの水泳はじめて物語
http://plaza.rakuten.co.jp/tatsuo16/diary/200705210000/


 つづく













第29話 交通事故! 記憶が?

電報は、大阪にいる父の弟(おじさん)からでした。

そこには、父が大阪で交通事故にあって、重態であること。

そして、おじさんが、すぐ東京に行くから安心しなさい。

といった事が書かれてました。

良かった! でぶっちょは思いました。

父が交通事故にあったのは、驚いたけど、それよりも、

この生活に終わりが来ることのほうが嬉しかったのです。


翌日、約束通り、おじさんはやってきました。

おじさんは、父と背格好は似ていて小柄なのですが、

父と違い目つきが鋭く、いつも大阪弁でしゃべるので

怒られてるような錯覚を起こし、でぶっちょ達兄弟は

いつも、怖がっていました。

しかし、この時ほどおじさんが素敵に、頼もしく見えた

事はなかったのです。

地獄に仏」とはこの事を言うのですね。

おじさんの話によると、父は道路を横断中に車にはねられ

頭を強く打って、そのまま意識不明

免許を持っていない父は、身元がわかるようなものは何一つ

身に着けていなかったそうです。

しかも、意識が戻っても、軽い記憶喪失にかかり、

思い出すまでに時間が、かかったらしいです。

そんな話を聞きながら、でぶっちょ達は涙が溢れてきて

わんわん泣き出しました。

今まで、我慢してきたことが堰を切ったかのように

一度に押し寄せて来たのでした。

「でも、もう心配はいらないよ! 」

おじさんは言いました。 

もうすぐ、父が退院し、戻ってくる事を告げました。

そして、おじさんは、父が退院する日まで、泊まってくれました。

自分のお店があるのに、さぞ大変だったと思います。


その間にたまっていたつけを、すべて払ってくれました。

すごいなあと子供心に思いました。

そして、父の退院の前日、父を迎えに行くために、

大阪に戻っていきました。


そして、父が大阪から帰ってきました。

ごめん、ごめんと泣きながら。

でぶっちょ達はみんなで、父に飛びついて、

しばらく、泣いていました。

父は、もう二度とこんな目にはあわさない、

二度と離れ離れにはしないと誓いました。


 つづく









第28話 蒸発?

食卓の上の書置きには、

大阪に行って来る、2〜3日で戻るから頼むね」

といったような内容が書かれてありました。

瞬間、えっと思いましたが、まあ昼間は学校だし、夜も顔を

合わすことは平日はあまりないし、祖父もいるから、

2〜3日なら大丈夫だろうと思い直しました。

弟たちは何も知らず、いつも通りキャッキャッと騒いでいました。


そうこうしているうちに、約束の3日目がやってきまして、

父の帰りを今か、今か、と待っていました。

当時、でぶっちょの家には、電話はありませんでしたので、

ひたすら、待つのみでした。

その日はになっても、帰ってきませんでした。

次の日も、その次の日も、またその次の日も………。

1週間が過ぎても父は帰ってきませんでした。

もう、泣きそうになりました。 捨てられたと思いました。

弟たちの手前、不安な顔は見せられませんので、結構強がって

見せてましたが、不安で不安でしょうがありません。

祖父に聞いても、知らないの一点張りで、本当に知らない

みたいでした。

幸か不幸か、食料はつけで調達できましたので(27話参照)、

何とか最初は食いつないでいくことができました。

それでも、父が帰ってないことが、周りに知れ始めたころから、

お店で買い物しても、いい顔をされなくなり、しまいには、

つけはダメといわれる始末。 ガーンでした。

そりゃそうでしょうね、子供と老人だけの家庭に支払能力があると

思えませんから。 

それでも、1件だけパン屋さん 前田ベーカリー

いうんですが、とても親切にしてくれて、最後までつけで

買うことができました。

サービスも1度や2度じゃありません、こっぺぱんを買うとき

ただでピーナツバターやジャムを塗ってくれたり、

飴玉をただでくれたりとか...してもらいました。 

いわば、命の恩人ですね。

それでも、でぶっちょのほうが気がねをしまして、

インスタントラーメンを最後に1箱買ってから、お店に行かなく

なってしまいました。

インスタントラーメン1箱に30食入っていましたけど、

4人で食べたら、すぐなくなっちゃいました。

も時々帰ってきましたけど、家がこんな状態にもかかわらず

また、仕事へと行ってしまうのです。

お金はその時に置いていってくれるので、食いつなぐことが

出来ましたが、すぐまた底をついてしまうのです。

一番下の弟のつよっちょが4歳なので、夜はさみしくて

泣きますし、お腹が空くとひもじくて、我慢できません。

こっちも、泣きたくなっちゃいますよ。

そして、考えたのは学校の給食を食べないで、家に持って帰る

ことでした。

もちろん、自分も食べないとお腹空くので、少しパンをかじって

残りはテイクアウトしました。

クラスの中で余ったおかずとか、パンをもらって帰った事

もありました。  毎日が戦争のようでした。

給食費も払えず、家の状態は担任の先生も

知ってましたので、心配してくれて、何かと気にかけてくれました。

つけで、買ってたお店の人が集金に来ましたね。

払えないので、ひたすら頭を下げて待ってもらうしか

ありませんでした。

この頃はいつも、お腹を空かしてましたね。

家庭教師をしてくれている大学生のいとこが、

見かねて、家に来るときは必ず何か食べるものを

持ってきてくれて、そして、その日は電車がなくなるまで、

一緒にいてくれました。 心強かったです。

家にお風呂がなかったので、銭湯へみんなで行ってた

のですが、お金がなくなると当然食費優先ですから、

お風呂には入れません。

季節が初夏だったのが、不幸中の幸いでした。

たらいに水を張って、ごしごししました。

湯沸かし器? ないですから!

真水って冷たいんですよ。 冷たいのと、面倒くさいのも

手伝って、たらいのお風呂は頻繁には入りませんでした。

たぶん、その頃は臭ってたんじゃないでしょうかね?


こんな風に毎日を過ごして、ちょうど2ヶ月程った頃に、

1通の電報が届いたのです。


  つづく






タグ: 蒸発 給食

第27話 家庭教師とつけ

小学校での人間関係は、とてもよく、友達もできて

本当に毎日が楽しいものになっていました。

しかし、家に帰るとそれは、それは、地獄のような生活が

待っていました。

弟達の世話と、食事の支度をしなければ

ならなかったからです。

遊びに行く時も、弟を連れて行ってました。



母がいない分、父は母親の役もこなせなければ、なりません

でした。

一つは、教育です。 でぶっちょは長男のため、

期待を一身に受けてまして、なんと、こんな生活にも

かかわらず、家庭教師をつけていたのですよ。

でも、いとこですけどね。

21話に出てきた9歳上のいとこです。

このときでぶっちょは小学校4年生、いとこは大学1年生です。

小倉から明治大学を受けて、合格して、東京に住んでました。

週2回、国語と算数を習ってました。

成績はというと、中の中でした。 ふふーっ!


そして、もう一つは買い物です。

別に父が、買い物をしてくれてるわけじゃなく、

でぶっちょが買い物に行ったときに、現金がいらない

ようにしてくれてたのです。

簡単に言うと、つけ ですね。

だから、小さな商店街でしたけど、生活必需品は

ほとんど、つけで手に入りました。

スーパーなどなく、全部商店でした。

八百屋、乾物屋、パン屋、肉屋、挙句のはては、

出前までも、つけがきくようになりましたね。

当時は乾物屋に玉子をバラで買いに行き、

ガラスケースの中に入ってる、うどんやそばも買いました。

うどんを経木に包んで、紙にくるんでましたっけ。

パン屋ではあんぱんが1個15円、コッペぱんが20円

甘食が10円でした。

近くには、パイを作ってる工場があり、商品として売れない

B品を安く売ってました。 美味しかったですよ。

醤油や味噌は酒屋で量り売りでしたし、当然お酒も

量り売りで買ってましたね。 瓶を持っていくんです。

よく、買いに行かされました。 でも、いやでね。

頻繁に買うもんですから、また来たって顔されるのです。

一回、帰りにころんで、お酒のビンを割ってしまったことが

ありました。 起こられましたね。

まあ、こんな生活がしばらく続いた、ある日のこと。

いつものように、朝食事をしようと、食卓を見ると

なんと、書置きがありました。

 つづく










第26話 家の中と外と!

新しい学校にも慣れ、友達もでき、どうにか授業にも

ついて行きだした、でぶっちょでしたが、家の中では

波紋が広がろうとしていました。

読者諸兄はでぶっちょののことを、覚えておいで

だろうか?

そう、昼から夜へ仕事を変えて、この頃は目黒の

セブンスターというクラブで働いていたそうです。

もともと、親兄弟が母を頼って上京、母は生活費を

捻出しようと、働きにでたのが始まりでした。

この頃のでぶっちょ家には、母の姿があまり

ありませんでした。

父も、昔とったきねきねで、夜の仕事に変わりましたので

夜はでぶっちょ3兄弟と母の父(祖父)と4人でした。

父が夜の仕事を始めたのは、自分が夜働けば、母は仕事を

やめて、家にいるだろうという計算からでした。

しかし、それが見事に裏目に出ました。

母は、仕事が忙しく、身入りもよくなり、おもしろくなった

のでしょう。

夫婦でどんな話し合いがあったのか、知る由もありませんが、

交渉は決裂したのです。

必然的に夜の家事は、でぶっちょと祖父の仕事になりました。

祖父といっても、元大工で家事なんかした事がありません。

でぶっちょに家事が重くのしかかってきました。

包丁を握りだしたのもこの頃からでした。

父と顔を合わすときは、たいがい料理のレッスンでした。

包丁の使い方、野菜の切り方など...etc。

歳を経るともに徐々に上達していきました。

この頃、母の顔を家で見れたのは週1回くらいだったと思う。

それが、だんだんと周期が長くなり、月1回から3月に1回

までになったのです。(涙

子供ですから、母親は恋しいし、まして、ちびっちょはまだ

4歳でしたから、慣れるまでぐずって、かわいそうでした。

そんな状態でしたので、母が帰ってきても「お帰りなさい」

って言えなくなり、出て行くときは「今度いつ来るの」て

つい言ってしまって、父にはこっぴどくしかられました。

「お帰りなさい」と「行ってらっしゃい」と言いなさい

て言うんです。

朝の支度は最初のころは父がやってましたけど、父も

忙しくなり、明け方帰ってくることも多くて、でぶっちょも

手伝うようになりました。

たいがい、朝ごはんは食卓の上に作ってありました。

それを暖めて、食べて学校へいってました。

電子レンジも炊飯ジャーもない時代でしたので、

けっこう面倒くさかったですね。

特に夏の暑い日は何かプーンと匂う気がして。

そんな、家庭環境でしたから、学校へ行くのが楽しくて

楽しくてしょうがありませんでした。

当然、学校の行事には母は来ません、授業参観は誰も

来ません。

たまに、父が授業参観にやってきましたが、当時は

今と違って父親が昼間学校に来るなんて、考えられ

ませんでしたので、かなり、注目目の的でした。

それでも、父としては精一杯来てくれたのだと思います。

年に1回の運動会は父も、母もきてくれて

職場のお友達までつれて、にぎやかでにぎやかで、

とても楽しかった。

こんな時がいつまでも続けばいいと

子供心に思ったものでした。


  つづく













タグ: 仕事 留守

第25話 転校初日

いよいよ、転校初日がやってまいりました。ふらふら

どきどき、どきどき! 親に連れられて職員室へ。

どきどき、どきどき、どきどき! 先生と一緒に教室へ。

心臓が口から出てくるぐらい、あがってしまい、

頭のなかはパニックで、真っ白な状態でした。

今じゃ考えられませんけど、当時のでぶっちょは

こんなかわいい、小学生でした。

当時のクラスは45名で、でぶっちょの学年は2クラス

しかありませんでした。

そして、3年2組に編入されました。

教室に入ると、一斉に注目の的で、90の目が

でぶっちょに注がれました。

もう、ひびりまくりで顔をあげることすら、

出来ませんでした。

たぶん、顔もまっかで、火が出たような状態でした。

お決まりの先生の紹介の後、自己紹介のシーンです。

何をいったのか、ほとんど覚えてません。

といっても、名前を言うくらいですけどね。



無事?? 挨拶が済むと、指定された自分席へ

着席して、授業を受けたのですが、

これが、また、びっくり!!

教科書が違う上に、進みぐあいも早かったのです。

おまけに、でぶっちょは夏休みの間、宿題がないことを

いいことに、遊び呆けてましたので、ちんぷんかんぷん!

身体が勉強する体制になってなかったのですね。

怖いですね。

おかげで、また明日からの悩みの種が増えたのでした。


 つづく 











第24話 新しい環境

夏休みが終わる数日前に、東京に戻ったでぶっちょ達でしたが、

すでに引越しは終わっていました。

新しい家は同じ品川区内ですが、山手線の五反田駅まで徒歩20

分、目蒲線の不動前駅まで15分くらいで、かの力道山

焼いた桐ヶ谷葬祭場にほど近いところにありました。

高橋荘という半アパートで、以前は大家さんが

住んでいた一軒屋をそのまま貸しているんです。

ですから、でぶっちょ達は1階全部(といっても2DK)を

借りまして、2階は3部屋ありましたが、全部別の人が

暮らしていました。

玄関を入ると靴脱ぎ場があって、左に共同の汲み取り式の

トイレ、右に階段、正面にでぶっちょ達の部屋の入り口が

ありました。

残念ながら、お風呂はなく近くの銭湯へ行ってました。

けっこう住宅密集地で昼間でも日当たりが悪く、電気を

つけて生活してました。

1階ですので、猫の額みたいな庭がありまして、

そこに洗濯物を干していました。

庭には小さな木戸がついていて、そこからも出入りできました。

もともと、一軒屋ですので、でぶっちょ達の1階には

十分な設備があり、台所のガスレンジとかが最初からついて

たようです。 

それから、小学校も変わりました。

転校先の小学校は品川区立第一日野小学校で、

家から不動前駅の方向へ、徒歩で7〜8分のところにありました。

鉄筋コンクリート3階建ての校舎で、校庭は舗装されていて、

以前の小山台小学校とはだいぶ、勝手が違ってってました。

とても近代的で、都会の小学校といった風でした。

いよいよ、これから新学期です、でぶっちょは期待と不安を

胸に、どきどきしながら学校へ行く日を待っていました。

 つづく





第23話 帰郷 楽しい夏休み

親の心配もどこ吹く風のでぶっちょ3兄弟!

夏休みを北九州の野に山に、走り回っていました。

でも、でぶっちょがびっくりしたのは、九州に遊びに来ているため

地域が違うので、夏休み恒例の朝のラジオ体操は、出なくても

いいのだと思ってました。

そしたら、なんと、全国どこでも参加してもいいんですって。犬

早速、守恒の伯母さんがラジオ体操のスタンプカードを、

もらってきました。

しぶしぶ、3人とも早起きして、ラジオ体操に参加しました。

最初、近所の子供達は、見慣れぬ3兄弟を遠巻きで眺めてましたが、

毎日顔をあわせるので、いつしか、遊び友達になっていました。

本当に楽しかったですね。

それから、一番上のいとこが近くの林にセミを採りに連れてって

くれました。 

3人ともはじめての体験です。 長い棒の先にトリモチをつけて

セミのいる木に近づくと、そーっと背後から パシッ。

あーあ逃げられてしまいました。

とても、面白かったですね。

圧巻は、伯母さんが子供達を小倉の市内まで、連れてってくれて、

東映会館や井筒屋(デパート)で買い物やら、食事とかして、

最後に当時北九州で一番高いビル

北九州市役所の展望台へのぼりました。

それが、記憶では3階立てのビルだった気がするんですが、

そんな訳ないですよね。(昭和40年当時です)

東京で育っているでぶっちょには、とても高いビルには見えません

でしたが、得意そうに話してる伯母さんの顔をみたら、

そんな事は言えませんでした。



そんな楽しい日々は、あっという間に過ぎて、とうとう

東京に帰る日が来ました。 約束どおり、父が迎えにきたのです。

3兄弟は帰るのは嫌だとダダをこねましたが、そんな理屈は

通る訳もなく、また、18時間かけて東京へ戻って行きました。

ちょうど、新学期が始まる数日前でした。

帰った日の夜、でぶっちょは布団にはいると、わんわん

泣きました


九州での楽しかった生活、生涯忘れる事の出来ない思い出が

頭の中を駆け巡り、いとこや向こうでできた友達の顔を

思い浮かべながら、今度いつ会えるかわからない不安で

胸が張り裂けそうになったからでした。

 つづく






第22話 帰郷 4

伯母さんの家に2泊して、今度は父の兄の家へ行きました。

伯父さんの家は小倉南区の守恒というところにあって、

昨日泊まった伯母さんの家から、南に5キロくらいのところ

です。

ここにも、いとこがいまして、上がでぶっちょより3歳上で

女、下がつよっちょと同い年で男の姉弟でした。

伯父さんに当然奥さんがて、この人がなかなか

行動力のある人でした。

いつも、何かしていないと気がすまないタイプの人間で、

でぶっちょ達の面倒を見てくれました。

というのも、父が叔父さんの家へ来てから、2日ほどで、

東京へ戻っていったからです。

夏休みが終わるころ、また迎えにくると、言い残して、

兄弟3人を叔父さん宅へ預けて、東京へ帰りました。


なぜでしょうか? まあ考えられるのは、職探しです。

でも、なぜ子供を3人共、兄夫婦のところへ預けたので

しょうか 30日間も? 

しかも、遠路はるばる九州へ、お金をかけてまで。 

不自然ですね。

そして、もう一つ、なぜは来なかったのでしょうか?

むむむ! 謎が謎呼ぶ殺人事件...♪ 

古すぎて知らないです。


でぶっちょも直接聞いた事ないので、わかりませんが

父が原田さんのところを辞めた理由と関係あると思うのです。

それは、母が勤めていたスナックから、目黒にある

クラブヘ転職したからです。引き抜かれたらしいです。

クラブといっても、水泳クラブじゃないですよ。

そう、あのクラブです。 お姉さんがいるクラブです。

もともと、親兄弟が母を頼って上京して、家計に負担を

かけたのが、いたたまれなくなって働きだしたのです。

そして、稼ぎのいい水商売へと走り始めたのです。

当然夜の仕事ですから、夜、子供の面倒は父が見ることに

なりますよね。

父は考えたと思います。 自分が子供の面倒を見ている

から、母が夜の仕事についてしまうのだと。

当然、夫婦で話し合いをしたでしょうが、平行線でした。

それじゃあ、父は母が仕事をやめざるを得ない状況をつくれば、

今の仕事をやめるだろうと思い、原田さんの会社を退職

したのです。

そして、自分も昔とった杵柄で、水商売を始めました。

すごい、理論ですよね。 風が吹けば桶やが儲かるってか!

だから、その話し合いだとか、職探しだとか、で

子供達がいると、うまくないので、兄夫婦のところへ

預けたのだと思います。 ふうー(汗、汗

父の気持ちはよくわかりますが、ほかに方法はなかったの

でしょうかね?

このときの父の判断、行動がでぶっちょ家の将来

大きく影響を及ぼす結果となるのですから。

そんなこととは、露知らず でぶっちょ3兄弟は九州で

夏休みを存分に謳歌していたのでした。

 つづく











第21話 帰郷 3

伯母さんの家は、小倉北区にあり、小倉港から2キロほど

南へ下がった所で、家の後ろには、小文字山(こもんじやま)

の登り口があります。

小文字山というのは、京都の大文字の送り火になぞられて、

お盆になると、やはり、かがり火で山の中腹に

小という文字が浮き上がります。

ですから、当時はけっこう田舎でした。(地元の方ごめんなさい)

そんな伯母さんの家には3人の子供がいました。

でぶっちょ達のいとこにあたりますが、みんなもう

けっこう大きかったですね。

一番上のいとこがでぶっちょと9歳違ってましたので、

この時17歳で、その下が15歳と12歳で、

順に男、女、男でした。

伯母さんは才女で、かつて、朝日新聞社の編集部に

勤めていました。

ですから、人当たりはいいんですが、芯は強そうでしたよ。

そんな伯母さん宅に厄介になって、感動したことが、

1つあります。

それは、夕食にカレーライスが出たんですけど、

でぶっちょ達は生まれて初めて、カレーが美味しいと

思ったのです。

というのも、うちの父は、大のカレー嫌いで、食卓に

カレーが出ることはめったにありません。

しかも、カレーが嫌いなので、味見はしません、

一応、料理はできますので、市販のルーなど使わずに

よせばいいのに、カレー粉から作るんです。

そしてとどめは、カレーがゆるいんです。

しゃばしゃばなんです。今で言うスープカレーのようでした。

でも、でぶっちょたちは、それがカレーだと思ってましたので、

伯母さんの手作りカレーを食べたときには、ほっぺたが

落ちるかと思うほど、美味しかったのです。

父と同じでカレー粉から作るんですが、まったく別の食べ物

でした。

それ以降、でぶっちょ達兄弟は、家でカレーが出ると

伯母さんのカレーが食べたいとダダをこねるように

なりました。

まあ、まったく取り上げてくれませんでしたけどね。









第20話 帰郷 2

車窓から外を眺めていたでぶっちょも、ようやく睡魔に

襲われてきたので、自分のベッドへ行って寝ました。

   zzz zzzz ZZZ ZZZZZ ♪


翌朝、列車の停車する振動で6時ごろ目を覚ましました。

列車の中で目覚めるのは、ちょっと変な感じがしましたが、

朝のすがすがしい空気に包まれたら、そんなことは

すっかり忘れてしまいました。

そして、朝食は駅弁を買ってみんなで食べました。

やる事なすことすべて初めての経験なので、とても新鮮で

楽しかったですね。

列車はもうだいぶ目的地に近づいています。

山口県を抜けるとそこは、海の真下、そうです

関門海峡トンネルです。当時は橋がまだ

架かってませんので、人も、車も、列車もこのトンネルを

利用しました。

トンネルを抜けるとそこは、雪国ではなく、九州です。

でぶっちょが初めて本州から外に出た瞬間です。

正確には、ここで生まれたので、初めてではないのですが。

門司を過ぎ小倉駅に到着したのは、もうお昼をすこし

回ったところでした。

駅に降り立ったでぶっちょ3兄弟は、もうキョロキョロして

落ち着かないたらありゃしないですね。

改札を抜けると父の姉が迎えに来ていました。

  つづく









第19話 転校と帰郷@

でぶっちょは小学3年生の1学期で転校しました。

父が原田さんの会社をやめたのです。

原田さんの所に転がりこんだわけですから、やめるとなると

いつまでも、そこに住むわけには、いけないでしょう?

なぜ、やめたのかは、後でお話しますね。

2学期から新しい小学校に行くので、小山台小学校の

夏休みの宿題はしなくていいよと言われたとき、とても

嬉しかったのを覚えています。

しかも、夏休みの間九州へ連れて行ってくれると聞いたので、

これまた、嬉しかったですね。

でぶっちょ3兄弟にとっては、初めての帰郷となります。

父が兄弟3人を連れて、東京駅から寝台特急「あさかぜ」に

乗ったのは、夏休みが始まってすぐでした。

当時この特急で、小倉まで行くのに18時間かかったのです。

ですから、乗車したのは夕方の6時頃でした。

3兄弟は大はしゃぎです、なんたって初めての長距離旅行

で初めてのブルートレインですからね。

しかも、食事は食堂車で食べたんですよ。

でぶっちょはカツライスを食べました。

とんかつじゃないですよ、カツライスです。

カツの上にデミグラスソースがかかっていて、とても

おいしかったです。

いまだに、そのときのことは忘れられませんね。

今考えると、父はかなり無理したんじゃないかと思います。

子供3人つれて、小倉までいくらかかったのでしょうか?

聞いた事もなかったですね。

はしゃぎ疲れた3人はそろそろ眠くなる時間です。

夜8時頃には寝台車ですから、椅子からベッドヘ

変更になってました。

一番下のベッドは父とちびっちょ、中段はつよっちょ、

一番上のベッドはでぶっちょでした。

上段のベッドは今の規格と違ってて、ほとんど電車の屋根に

近い部分でしたので、半端じゃなく揺れました

こう見えても、でぶっちょは子供のころから神経質でして、

電車のベッドなんかで、眠れるわけがありません。

しかたないので、通路にでて椅子にこしかけて、

遠くの景色を見てました。

父は父で、子供のことが心配だったのでしょうね、でも、

ちびっちょを抱っこして寝てたので、身動きが取れません。

しばらく下から、声で安全確認をしてました。

「つよっちょ大丈夫か? でぶっちょも大丈夫?」

大きな声が出せませんので、小声で叫んでました。

  つづく









第18話 東京オリンピック!!

でぶっちょの家がゴタゴタしている間でも、

世界は動いていました。

でぶっちょが小学2年生になった年、東京オリンピック

開催されました。 

日本にとっては歴史的大イベントです。

この日のために、急ピッチで道路整備や新幹線の開業

競技場、プール等を建設して来たのですから。

新幹線といえば、当時のキャッチフレーズは

 「夢の超特急 ひかり号」でした。

今考えるとすごい、キャッチコピーでした。

 「常夏の島ハワイ」と同じ次元ですよね。

話をオリンピックにもどして、

昭和39年10月10日、代々木の国立競技場で開会式が

始まりました。

当時、でぶっちょの家にはまだ、テレビがなかったので、

友達の家でたびたび、オリンピックの中継を

見せてもらいました。

開会式が始まってしばらくすると、青い空に、五輪のマーク

がジェット機によって描かれていました。

小さいながらも、感動したのを覚えています。

競技ではダントツにすごかったのが、マラソンの

アベベ選手です。ケニアだったかな?

裸足で42.195キロを走りとおして、驚異的な記録で

金メダルをとりました。

日本中が熱狂しました。日本選手としては、円谷選手

君原選手が出場しましたが、円谷銅メダル、君原8位

でした。

その後ニュースでは円谷選手の自殺、アベベ選手の

交通事故と悲しいニュースが報道されましたね。

市川昆監督のドキュメンタリー映画「東京オリンピック」

当時、小学校から団体で見に行きました。

日本選手団の赤いジャケットで、胸に帽子をおいて

入場行進していた姿が鮮明に記憶に残っています。

 先日の東京都知事選で石原都知事のオリンピック

誘致の施策が叩かれてましたけど、

でぶっちょはこの40年前の東京オリンピックの

施設を利用してやるのには賛成ですけど。

もちろん、ずっとメンテナンスはしていたし、

既存の施設を使って日本がまた、活性化できるのは

すばらしいことだと思いますけど。

第17話 断水

引越しも終わり、新しい環境にも慣れてきた頃、

母が仕事をしに出かけるようになりました。

やはり自分の肉親が次から次に頼ってきて

家計を逼迫していたのですから、当然夫婦間の

いざこざは絶える事がなかったと思います。

思い余った母は、最初は昼間の仕事に就いていたのですが、

いつからか、夜スナックに勤めるようになりました。

当然、まだ幼い子がいるので、面倒は父が見ることに

なりました。

この時でぶっちょ6歳 つよっちょ4歳 ちびっちょ2歳

でした。

まあ、夫婦間の詳しい話はわかりませんが、気まずい状態

であったことは、確かです。

そんな折、母の弟の就職が決まり、家を出て行くことに

なりました。わーい(嬉しい顔)

運送会社に住み込みで働くことになったのです。

それまで、働いていなかったのですから、驚きです。

季節は夏から秋へと変わろうとしていました。



ちょうどこの頃、東京では(でぶっちょの周りだけかも)、

広範囲で水不足になりまして各家庭の水道は断水してました。

定期的に給水車が回ってきて、飲み水を配給してたのを

覚えています。

でも、まだ井戸水を併用している家庭も多く、

でぶっちょの所も原田さんの井戸水を借りて生活していました。

そうこうしているうちに母の妹も、自分でアパートを借りて

家を出て行きました。

ようやく、人並みの生活ができるようになったのですが、

母は仕事をやめずに続けていました。

 つづく

でぶっちょの家の地図です↓ だいぶ当時と変わってますけど
だいたいの位置はあってると思います。

4畳半1間のアパートの場所

引越し先の場所



第16話 引越し

こんな、でぶっちょ一家を見かねてか、

ある人から、好意的なお誘いを受けました。

その人は、父の会社の社長さんで原田さんという方でした。

原田さんは父の勤め先である工場に、隣接した場所に

自宅を持ってまして、その自宅と工場の間に社員の寮に

使用していた部屋がありました。

部屋といっても、ちゃんと独立した平屋の一軒家でした。

ただ、ほとんど、工場と接しているので、独立しているか

どうかは、意見の分かれるところですが。

まあ、そこが空いているので、入居しないかという

ありがたいお誘いでした。

しかも、家賃はただ同然だったと思います。

今まで住んでいたアパートの家賃がいくらだったのかは、

でぶっちょは知りませんが、その家賃と同等かそれ以下

だったと推測されます。

でぶっちょ一家にとってこの話は、渡りに舟

たぶん、父は二つ返事で受けたのだと思います。

間取りは2DKで、もちろん台所もトイレもついていました。

ただお風呂はなかったので、銭湯に通ってました。

しかし、広くなったとはいえ、8人の大家族です。

やはり、寝るときは苦労していたみたいで、でぶっちょと

弟のつよっちょは押入れを改造した、ベッドで寝ていました。

押入れの上がでぶっちょで、下がつよっちょでした。

居候している母の父が、元大工でしたので押入れの間口に

ピッタリはまる柵をこしらえて、でぶっちょが押入れから

落ちないようにしただけのものでした。


しかし、本当に原田さんはいい人でした。

子供はいなくて、奥さんと二人暮しで、柴犬を飼ってました。

でぶっちょ3兄弟には、とてもやさしくて、いつもお菓子を

もらっていた記憶があります。

こうして、父の会社のすぐ横に引っ越した、でぶっちょ一家は

とりあえず、落ち着きを取り戻したかのように見えました。


  つづく













第15話 突然の訪問者!

楽しい小学校生活もつかのま、ある日突然事件が起きました。

それは、でぶっちょの母のが九州から、突然上京してきたのです。

でぶっちょのおばさんにあたるその人は、熱烈な美空ひばり

の大ファンで、東京に行けば、美空ひばりに会えるという一心で

家出同然で姉を訪ねてきたのでした。 ふぅー!

今で言う、追っかけでした。

しかし、突然の訪問者はこれで終わったわけでは

ありませんでした。

その1ケ月後には、おばさんの、そして、半年後には

母の父親がやはり、母を頼って上京してきたのです。

すごい事になってきましたね! 長島さん

しかし、皆さーん ここで、思い出してほしいのですが、

でぶっちょの家は、4畳半一間だけでしたよね。

親子5人にプラス3人という生活が、始まりました。

合計8人で4畳半一間の生活、考えられませんね。

考えたくないですね。

文字通り、足の踏み場もなく、布団だってあったのか

どうかわかりません。

たぶん、寝るときは折り重なって寝ていたのでしょうね。

この頃から母は家のなかでは、肩身の狭い思いをしつつ、

こういう事態になった責任を感じていたのでしょう。


しかし、こんな生活が長く続くわけがありませんでした。

  つづく





第14話 小学校生活@

こうして、でぶっちょの小学校生活が始まりました。

しかし、でぶっちょは幼稚園中退という、

ハンデがありましたので、字を読むことも、

書く事も出来ませんでした。

それでも、現代と違って、小学校に上がってすぐ、読み書き

出来る子供は少なかったですけどね。

まあ、いずれにせよ最初の頃のでぶっちょの成績は

あまり芳しくなかったようです。



1年〜2年の頃の心に残る思い出は、2つあります。

1つは仲の良い同級生に、肉屋の息子がいまして、

学校の帰りによく、その子の家に遊びに行きました。

遊び場はというと、お肉の冷蔵室の中です。

牛や豚の大きいブロックが吊るされている中で

遊びました。 そして、帰りには必ずといっていいほど

コロッケをもらって帰るのでした。

もちろん、ただですが、そのコロッケの美味しいこと!

いまでも、時々懐かしく思い出します。

もうひとつは、音楽の時間に唱歌「春の小川」を

歌ったことです。るんるん

あまり、大きな声では言えませんが、でぶっちょは

この歌が大好きです。 

歌を歌いながら、窓から眺めた校庭の花や木!

なかでも、桜の木がとてもきれいで印象的でした。

歌の番組でこの歌が流れると、今でも当時を思い出して

胸が熱くなりますね。  

しかし、こんな楽しい思い出ばかりではありません。

でぶっちょが入学してから、しばらくして、事件

起こりました。  またーあ?


  つづく

第13話 小学校入学

昭和38年4月 でぶっちょは品川区立小山台小学校

へ入学しました。

ピカピカの一年生♪ です!

当時の小学校は木造平屋建てで、校庭は

土のグラウンドでした。

校舎に入ると、木の香りに混じってプーンとワックスの

油臭い匂いがしていました。

校舎はT字型で、今の学校に比べると簡単な造りでした。

校庭の一角には鳥小屋があり、鉄棒やすべり台、高鉄棒、

砂場、ジャングルジムなどの遊具が点在していました。

校庭を囲むようにして、桜の木が植えてありました。

当時の東京は、まだ、土地がありましたので、校庭はけっこう

広かったですね。

だだ、翌年がオリンピックの年にあたりますので、この頃は

すでに、建築ラッシュでした。

首都高速も急ピッチで建設していた頃です。

4月ですので、がとてもきれいで、風が吹くとはらはらと

散っていくのが、子供心にとても印象的でした。

でぶっちょは1年2組になりました。

担任の先生の名前は、今給黎常春(いまぎいれつねはる)

先生でとても珍しい名前の男の先生でした。

穏やかで、やさしくて、顔は俳優の小山田宗徳

似ていましたね。

 知ってるかな? ちょっと不安!

このような、環境の中で小学生生活がスタートしたのでした。

 つづく


   苗字見聞録 珍しい苗字

第12話 入院生活

こうして奇跡的に助かった弟 つょっちょの入院生活が

始まりました。

今と違って当時の入院生活は、完全看護では

ありませんでした。

寝たきりの人、子供などは、自分一人では何もできませんので、

家族の付き添いが必要でした。

もし、それができなければ、付き添いの看護人を雇わなければ

いけませんでした。

つよっちょの場合は母が付き添って、ずっと病院に寝泊り

していました。 もちろん、ちびっちょも一緒です。

必然的に、家には父とでぶっちょ2人だけでしたが、

こう見えても、でぶっちょも5歳です、父が働いている昼間

一人で留守番なんかできる訳がありません。

父が朝出社前に病院へでぶっちょを送って行き、

会社が終わると病院に迎えにくる生活になりました。

おかげさまで? 父は料理や家事ができましたので、

不便はなかったので、家では不自由なく生活ができました。


子供の回復ははやいもので、3ヶ月もすると、ベッドの上を

飛び跳ねるまでになりました。

病院生活 昼間は男の子が3人いるわけですから、

うるさいのなんのって、静かにしなさいと

言われても、おかまいなし、しまいには人の部屋まで

遠征に行って、お菓子とか果物とかをせしめてくる始末です。

母からはきつく怒られましたが、でぶっちょは懲りずに

またまた、戦利品を持ってきていました。

看護婦さんにはけっこう人気で、でぶちゃん、でぶちゃんと

かわいがられました。

そんな楽しい病院生活も半年で終了になりました。

つょっちょの回復がはやかったので、退院許可がおりたのでした。

こうして でぶっちょ一家は無事? 元の生活に戻る事ができたのです。

ここで、ひとつだけ変化があった事がありました。

兄弟3人の顔です! 

事故の前の顔のかわいい順 

     @つよっちょ Aちびっちょ Bでぶっちょ

事故の後の顔のかわいい順 

     @ちびっちょ Aでぶっちょ Bつよっちょ

本人の名誉のため、申し添えておきます。



  
  つづく

第11話 奇跡!!!

父が駆け込んだ病院は、目蒲線武蔵小山駅前にある、
康済会病院#63687; で、救急指定病院になっていましたので、

対応は早かったようです。

自宅からは大人の足で20〜30分くらいのところにあり、

病院の前には、あの名門、都立小山台高校があります。

弟の状態は非常に危ない状態で、担当医は見た瞬間助からないと

思ったそうです。

ダンプに頭を2回轢かれていましたので、頭の皮は全部

めくれあがっていて、頭皮と頭蓋骨の間にがかなり

入っていました。

この砂を取り除くには、水で洗うのはダメで、当時かなり高額だった

ペニシリンを大量に使わなければなりませんでしたので、医者も

(お金のないことを見透かしてか)バツが悪そうに説明しました。

当然、でぶっちょ家にはとても支払うお金などありませんでしたが、

母が、「お金はいくらかかってもいいです、

       息子を助けてください

と泣きながら先生に食ってかかったそうです。



手術は十数時間にもおよびました。幼い弟は本当に頑張りました。

医者の腕がよかったのか、ペニシリンが功を奏したのか

わかりませんが、奇跡は起こりました。


弟は助かったのです


両親は天を仰いで、神様にお礼を言いました。



担当医の話では、あと少し病院に来るのが遅れていたら、

手遅れで、弟は助からなかっただろうと言ってました。

あの時救急車を待っていたら、弟は助からなかったのです。

親の直感とでもいうのでしょうね、子供を助けたい一心で

とった行動がよかったのです。

でぶっちょは、今でもその時の弟の顔を覚えています。

頭から血を流しながら、頭皮がめくれて、中から真っ白い

頭蓋骨の色が! 目に焼きついて頭から離れません。

弟は助かりましたが、弟の頭は38針縫いました。

3歳の子供の頭はとても小さく、ちょうどおでこのあたりを

38針、頭の端から端まで全部縫った格好になります。

それと、右目の目頭の下5cmほど..。とても痛々しいです。


この事故はラジオでも放送されて、新聞にも載ったそうです。

治療費や慰謝料とかは、相手の会社と示談が成立したそうです。


こうして、弟のつよっちょはしばらく入院生活を送るのでした。

第10話 大惨事!!!

弟の事故現場へ駆けつけた父は、あまりの悲惨さに一瞬

その場に立ち竦みました。

弟は頭から血を流し、ピクリとも動きません、「ああ、ダメか

父は見た瞬間そう思ったそうです。

駆け寄ると、弟はわずかながらをしていました。

    「誰か救急車を!!

周りには近所の人たちが、いつの間にか大勢やってきて、

事の成り行きを見守っていました。

昭和37年当時 電話のある家はかなり、珍しかったそうです。

当然、でぶっちょのの家には、ありませんでした。

 「今、呼びに行ったぞ!!」

誰かが、救急車を呼んでくれたのでした。

「ああ、ありがたい」 父は心の中でそう叫びました。

しかし、待てど暮らせど救急車はやってきません。

  「このままでは.....!」

業を煮やした父は、弟を抱えて一番近い病院へ

走りだしました

当然のごとく、弟の頭からは大量のが落ちてきて

道路に滴り落ちていきます。

父のシャツも、で真っ赤に染まりだしています。

道行く人々は、何事かと思って振り返って見ています。

何とか早く病院へと、父は持てる力を振り絞って

走っていたに違いありません。

そうしたら、なんと弟がしゃべったのです。

  「走ると頭が痛いよ、

     もっとゆっくりあるいてよ


3歳の幼児ですから、こんなはっきりとは、言えなかった

でしょうが、父にはそう聞こえました。

目から涙があふれてきて、止まりません。

もう、この後の記憶はあまりなかったそうです。

どうやって病院へ着いたのか、覚えていません。

気が付くと、病院の玄関が目の前に見えてきて、

あわてて病院へ駆け込みました。


  つづく

第9話 弟が!

こうして、入園から4ヶ月で幼稚園を中退した、でぶっちょは

一日のほとんどをのつよっちょと過ごしました。

母は一番下のちびっちょに手がかかるので、でぶっちょが

弟の子守をしていたのです。

自宅のアパートは、小山台小学校の裏門のすぐ近くで、

学校のチャイムがよく聞こえてましたっけ。

ちょうどその頃、学校の裏門の前面は工事中で、

工事のダンプとかが出入りしていました。

そこは、でぶっちょにとって、格好の遊び場だったのです。

だって大きな砂場のような状態で、あっちこっちに砂山が

できていたのですから。

9月に入ったばかりで、まだまだ暑い最中の土曜日。

事故が起こったのです。

土曜日ですので、父も半ドンで昼過ぎには自宅に

戻ってきました。

一家五人で昼食を食べました。おかずは、アジフライだった。

おいしかったよ。 お母さんありがとね。

でぶっちょはご飯もそこそこに、弟を連れて、

遊びにでかけました。

そうです、あの工事現場へ行きました。

やはり、子供でしたね、でぶっちょは遊びに熱中してて

弟の事を忘れてしまいました。

弟は大きなダンプカーのすぐ後ろに、しゃがみこんで

砂で遊んでいたのです。

ついに、ダンプカーが動きだしました。 

工事現場からバックで出ようとしたのですが、

ダンプカーからは 弟はまったく見えません。

ダンプカーはバックしてきて、ついに弟を轢いてしまいました

運転手は異常なものを感じたのでしょう、あわてて前進して

ダンプを元の位置へ戻そうとしました。

弟は本当に運が悪かったです。バックしてきたところを

1回轢かれ、戻るところでもう1回、都合2回轢かれたのです。


どうしよう! 今のでぶっちょだったら助けられたものを。

タイムマシンがあったなら、戻って助けてあげたいよ。


でぶっちょは泣きながら家に駆け戻りました。もうやだ〜(悲しい顔)

 「おとうちゃん、おかあちゃん、

つょっちょが..
.」

父も母もまだ、食事中でしたが、でぶっちょの血の気の引いた

顔を見て、ただならぬものを感じ、急いで工事現場へと

走りました。

  つづく




第8話 幼稚園

ちびっちょが生まれた翌年、でぶっちょは幼稚園に入園しました。

家から程近い、小山台幼稚園でした。

幼稚園のとなりには、農林試験場(現在は林試の森)と

呼ばれる農水省の施設があり、草木が生い茂っていて

自然がまだ、たくさん残っていて、環境は良かった

ところでした。

やはり、母が家にいたので、幼稚園だったのでしょうか?

この頃決して、裕福ではなかったはずなのに、幼稚園

に行かせてもらったことに、感謝しています。

あまり、この頃のことは、はっきりと記憶にないのですが、

1つだけ鮮明に覚えているのが、ツイストの事です。

そうです、踊りのツイストです。

それが大流行していまして、幼稚園の廊下でそのツイスト

をみんなで踊ってました。

そうしたら、靴下に穴が開くのです。

最初のうちは、踊りがへたくそなため、すぐ穴は開かないの

ですが、だんだんうまくなるにつれ、穴が開く周期が

早くなり、しまいには毎日靴下に穴が開くようになりました。

母にこっぴどく怒られましたね。

そりゃそうでしょ、母は穴の開いた靴下を繕って

また、はかすのですからね! 毎日靴下に穴が開いてたら

たまりませんね。

それから、もうひとつ記憶にあるのが先生のことです。

坂下先生と言う女の先生で、よく

大きな栗の木の下で」を

歌ってくれたのを覚えています。

何で覚えているのかというと、幼稚園の前の道を歩くと

長い坂道があります。

坂下先生はその坂の上に方に家があり、住んでいました。

よく先生は「坂の上に住んでいる坂下です」といっていたのです。

笑い話のようなので、覚えているのだと思います。

そんな楽しい幼稚園生活のなかで、でぶっちょは、はしか

かかってしまいます。

そして、はしかが治ったときを境に幼稚園に

行かなくなってしまいます。

家にいる味を覚えてしまったのでしょうね。

親の心子知らず」とは

こういう事を言うのですね。

ついに、でぶっちょは幼稚園を中退してしまったのです。

第7話 楽しかったあの頃

東京での生活は、順調な滑り出しで、しばらくは、

幸せな日々を過ごしていきました。

父は昼間の仕事にも慣れてきて、職場での人間関係も

良好でした。

また、母はというと、そろそろ臨月も近くなってきて

大きなお腹を抱えて、家事に専念していました。

母は料理が得意で、何でもこしらえていましたが、

でぶっちょがよく覚えている料理は、餃子でした。

母の餃子は全部手作りでした。

まず、皮を作るため、メリケン粉(でぶっちょの家では小麦粉の

ことをそう呼んでいました)を練るところから始まって、具、

そして包むという手順を繰り返して餃子を作っていました。

しかも、あの狭い、まぁるいちゃぶ台で器用に作っていました。

味ですか? それが、覚えてないんです。

幼かったせいでしょうか? 父に聞くと美味しかったよと

自慢げに話していたのを思いだします。

ついでに、当時の食卓によく出たおかずは、さつま揚げ、

あじフライ、くじらのベーコン、コロッケ、麺類 それから

梅干とぬかづけは、いつも食卓にあり、

とても美味しかったな!

(さつま揚げとくじらのベーコンはさっと炙ってお醤油つけてね!)

北九州出身の両親の嗜好のせいか、でぶっちょ家では、

味は薄味でうどんのつゆなどは、関西風うどんのように

透き通っていました。

けっして、豊かではない生活でしたが、親子がお互いに一生懸命

生きていたという実感があり、とても充実していました。

そうこうしているうちに、母が3人目を産みました。

3人目で初めて病院での出産でした。

目黒区に月光町というけっこう大きな商店街があり、

そこの中に 病院がありました。

自宅から徒歩で30分くらいでしょうか?

幼いでぶっちょは父に連れられて、病院まで行ったのを

覚えています。

昭和36年9月23日生まれの3男は、身体がちいさかったので、

ちびっちょ と命名されました。

これで、でぶっちょの一家5人

勢揃いしたのでした

第2部 幼年期  第6話 新天地東京

家族のため、あるいは、自分のために小倉から大阪、

そして東京へとやってきた父でしたが、まず、最初に

したことは、住む家を見つけることでした。

ところが、昭和36年当時の東京でアパートを探すのは、

そう簡単な事ではありませんでした。

というのも、幼い男の子供を2人抱えてのアパート探しは

どこの不動産屋も嫌がりました。

理由は、小さな子供がいると、部屋が汚れるからです。

まして、母のお腹には3人目がこの時いたのですから、

部屋を貸してくれる所など、皆無に等しかったのです。

 (しかしこの夫婦、引越しのたびに子供つくりますな。)

幸い、父の就職先から程近い場所に、築十数年以上経っている

ボロアパート(大家さんゴメン)が見つかり

親子4人半はここに、落ち着く事になりました。

場所は品川区で、目蒲線(当時)の武蔵小山駅から

徒歩で目黒方向へ15分くらいのところでした。

しかし、そのボロアパートは井上荘て言うんですが、

本当にボロなんです。

皆さんは、きっと想像がつかないと思いますが、4畳半一間に親子

4人半が暮らし、台所と便所は共同で、当然、お風呂は

ついてませんでした。

しかも、隣との仕切りの壁は名ばかりで、手で触ると壁が

ユラユラと波打つんですよ。 もちろん声なんか筒抜けでした。

本当に狭い部屋でしたが、幸か不幸かまだ家具らしきものはなく、

水屋とまぁるいちゃぶ台くらいしか、無かったように

記憶しています。



でも、親子4人半 肌寄せ合って生活できて、とても

幸せだったです。

父も、長年やってきた水商売をやめ、アパートから10分くらいの

ところにある町工場に就職が決まっていました。

この時、父28歳 母29歳 でぶっちょ4歳、つよっちょ2歳

いよいよ、新天地 東京での生活が始まろうとしていました。

 つづく





第5話 いざ東京へ

しかし、幸せな日々は、そう長くは続きませんでした。

でぶっちょの父は、やはりでしたね。

いつまでも、弟のところに厄介になるのは、男としての

プライドが許さなかったのでしょう。

しかも、親子4人ですからねわーい(嬉しい顔)ちっ(怒った顔)がく〜(落胆した顔)もうやだ〜(悲しい顔)

4人分の生活費と自分のプライドとの狭間に身をおいて、

ずいぶん悩んだ末に、今の生活を捨てて、新天地でひとはた

あげようと、決心したのでした。

父の1回目の人生の分岐点でした。

大阪に来てから、ちょうど2年目の春でした。

今にして思えば、このときの父の決断が良かったのかどうか、

はっきり言ってわかりませんが、少なくとも父が歩んできた

人生とは、ずいぶん違った人生になったのではないでしょうか?

結果論ですからね、今、どうのこうのいったところで、

人生やり直しはできませんが、この時 意地とプライドを捨てれば、

もっと長生きできたのではと、でぶっちょは思います。(涙)

しかし、当時の父は、今後どのような波乱に満ちた人生を送るか

など、知る由もありませんでした。

  つづく

第4話 弟 誕生!!

大阪へ着くと、勇夫おじさんは、快く でぶっちょ一家を

迎えてくれました。

父がびっくりしたのは、勇夫おじさんは、この時すでに

自分のお店を持っていた事でした。

小倉を出てから、わずか6年足らずの間によくお店が

出せたものです。


お店といっても、ちいさなBARでした。

おじさんは、小倉を出るとすぐに、大阪でバーテンダー

修行を始め、めきめきと腕を上げていきました。

やはり、センスが良かったのでしょうか?

4年程して、周囲の勧めもあり、

全国バーテンダーコンクール

出場しました。

なんと、いきなり3位に入賞したのです。

おかげで、大阪では一躍有名になり、ついに、スポンサーまでが

現れて、このお店を持ったのでした。

小さいBARですが、1階がお店、2、3階が住居という、

当時としては、めずらしい鉄筋コンクリート造りのビルでしたので、

でぶっちょは、金持ちのボンボンよろしく、おうちの中で、三輪車

に乗っていました。 (外は車が多くて、危ないという理由から)

当然 父も、おじさんの店を手伝うことになり、兄弟で力を

あわせて、お店は繁盛しました。


そんな中、母は二人目の子供を産みました。

でぶっちょのの誕生です。

えっ! 名前ですか? 

父は、さんざん考えた挙句、

つよっちょ と命名しました。

弟は生まれたときから、あまり身体が丈夫ではなかったので、

強い子に育ってほしいという願いを込めて"つよっちょ"名づけた

のでした。

でぶっちょの時とはえらい違いですけど。パンチパンチ

こうして、でぶっちょ親子4人は幸せな日々を

送っていったのです。


    つづく

第3話 大阪へ

その時から、父と3歳下の弟の勇夫おじさんの2人暮らしが始まっ

たのでした。

当然、生活は困窮を極め、手持ちのお金は底をつき始めました。

父は上2人の兄弟に頼ることを嫌ったため、自分で生活費をかせが

なければなりませんでした。


幸か不幸かその時、父はすでに高校は卒業していましたので、

当時、小倉にあった米軍キャンプで、バーテンダー

として働きました。[emoji:e-400]

米軍キャンプでは、最初言葉が通じず、苦労しましたが、

兵士からもらうチップが、給料より良かったため、何とか

頑張り通して米語が話せるようにまで

なりました。

そして、働きながら、勇夫おじさんを高校に行かせ、

無事卒業させたのでした。



高校を卒業した勇夫おじさんは、すぐに小倉を離れて大阪

へ就職しました。



それから、父は母と結婚して、私でぶっちょが生まれたのですが、

やはり、兄弟とのギャップが激しくなるばかりで、狭い小倉の町

ですから色々と人の噂にもなり、肩身の狭い思いを

したそうです。



そうして、逃げ出すように小倉の町を後にして、親子3人

勇夫おじさんを頼って大阪へ引越しすることになったのです。


つづく
タグ:自分史

第2話 大阪へのプロローグ

小倉で生まれてから、その1年後には大阪

行く事になりました。

それというのも、父の兄弟は男男男で、父は次男坊

なのですが、

上2人と下2人は腹違いの兄弟なのです。

上2人のお母さんが亡くなって、後添いとして父達の母が嫁ついで

きたのです。

しかし、父の父は、父が10歳の時に胃がんで亡くなって

しまいました。  ややこしい!

その後女手1つで兄弟4人を育ててきた父の母ですが、

父が18歳の時に亡くなってしまいました。

父の兄弟 上2人はこの時には、すでに結婚していましたが、

父の母の形見をほとんどを持っていってしまったそうです。

 父の母はお茶、お花、和裁で生計を立てていたので、仕事柄

和服をたくさん持っていました。

金目のものといったら、和服がほとんどでしたので、

すべて持っていかれて、父達は相当窮する羽目になりました。

この時から、腹違い兄弟の仲たがいが

始まったのです。


 つづく



第1部 九州時代  第1話 誕生

この物語は、でぶっちょとその一家の歴史を綴った自叙伝であり、

出てくる登場人物は、でぶっちょが関わった実在の人物をモデルに

しています。

そして、この物語を昨年亡くなったでぶっちょの実弟に捧げます。(涙)

それでは、本編の始まり始まり!手(チョキ)

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昭和32年3月 福岡県北九州市小倉北区に珠のよう男の子が

産まれました。

父 元(はじめ)・母 喜代子の長男として生まれた男の子は

でぶっちょと 名づけられました。

生まれた場所は母の実家で、母を取り上げた同じ産婆が

でぶっちょを取り上げたそうです。

現在では病院で産むのが主流ですが、この頃は自宅で

生むほうが普通だったんですね。

家は古く、昔ながらの日本家屋のつくりで、入り口から土間、

その奥に座敷と続いていました。

土間には井戸が掘られてあり、ポンプ式ではなく、

つるべ落としがついている井戸でした。←映画リングの貞子

が落ちた井戸とおなじもの! (恐)

これが、でぶっちょが覚えている一番古い記憶です。

それから、でぶっちょという名前の由来はと申しますと、

本当は やせっちょと命名予定だったのですが、父の姉の

家の近所に同じ名前の不良がいるので、やめなさいと

いわれ、しかも、これまた父の叔母の息子がとても

優秀なので、その名前をつけなさいといわれて、

でぶっちょとつけたそうです。←本当に適当なんだから!

ですから、近い親戚の内に、でぶっちょ が2人

いることになります。

親戚同士で顔をあわす時は、元(父の名前)のところのでぶっちょと

呼ばれていました。
 
つづく
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